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Vol.3 ”傷美”に心を学ぶユング派分析家
秋田 巌先生にお話を伺いました。

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● 忘れもしない、2000年の6月

院生:
先生の現在の研究内容について教えて頂きたいのですが。
秋田:
はい、まず、「Disfigured Hero」ということを言っております。そのことについてちゃんとまとめることが一番の課題ですね。二番目が「古典芸能と日本的精神性」ということでやっています。色々と講師を呼んだり、また能とか、狂言とか、歌舞伎とかを見に行くということをしています。だから、とても楽しいです。古典芸能の持ってる力には凄いものがあると思ってます。
院生:
「Disfigured Hero」についてわかりやすいように教えて下さい。
秋田:
傷が魅力にまで高まっているイメージがあるという。頂点はブラックジャックですね。今まではそういうイメージが無かった。日本語でいうと「破形の英雄」ですね。
院生:
先生がそこを研究しようとされたいきさつは、どのようなものだったんでしょうか?
秋田:
ユング研究所から、96年に帰ってきましてね、93〜96年まで居たんだけれども、成長感がほとんどなかったんです。ホントにしんどい思いをして、分析受けて、そして勉強もかなり一所懸命したんです、向こうでもね。我ながらよく勉強したと思うんだけれども、帰ってきたところが、前とあまり変わっていない、下手したら前より臨床が下手になっているんじゃないかくらいの感じだったんですね。習ってきたことが役に立つ感じというのが非常に薄かった。河合先生がユング心理学を日本人にも適応できるように、力を尽くしてくださったにも関わらず、そして河合先生の学問も、ユングの学問のことも勉強させてもらったにも関わらず、成長感がない…。講義とか物凄いしんどかった。それも全部結局、受け売りになってしまうということが物凄くしんどかったんですよ。
これは何とかせないかんと思ったけれども何ともならずに、悶々としていたある日、忘れもしない2000年の6月。この研究室で、書類とかの整理をやっているときに、パッとDisfigured Heroという言葉が出てきましてね。それとね、ブラックジャックのイメージがパッと交錯したんですよ。もう本当に不思議な体験だった。どうして不思議かといったら、Disfiguredなんて難しい単語、使ったこともないし、ひょっとしたら見たこともなかったかもしれない。それがいきなり、Disfigured Heroとブラックジャックのイメージが交錯したのでね。あれはもう、本当に不思議な体験でした。
そこがまあ、私の開眼です。そこからはね、自分の言葉でものがしゃべれるようになりましたね。そこは全然違います、2000年6月以前とは。
院生:
先生は、何が起こったと今思われますか。苦しんだ期間…。
秋田:
わかりませんけれども………。
まあ、そういうこと(笑)。
そういうことがあって、ぱっと本書けると思ったんですよ。何しろ開眼したんだから、本一冊書くぐらい簡単なことと思っていたのですが、それから8年くらい経ちますけど……(笑)。当初の予定からは、遅れてはいるけれども、やっぱり自分にとって一番大事な概念だから書くつもりでいます。

● 狂いの美、傷の美

院生:
「古典芸能と日本的精神性」の研究についてはどういうところから始めようと思われたのですか?
秋田:
それもね、実はスイス体験から。本当にスイス体験というのは、良くも悪くも、大きかったですね。スイスでも日本人にときどき会うんですよね。そこで、どうも男性も女性も、特に男性は、質的な意味で格好悪い、格好いい日本人がいないのが、残念だと思っていたのです。しかし、ある日、すごい美しい日本の男性を見たんですよ。美しいというその人の感じがね、古典芸能をやっておられる人のすっとした感じに近かったんです。
その体験と、それと、スイスで日本語が聞きたくなったときに、何を聞いていたかというと、6代目の三遊亭円生の落語のテープをずっと何回も何回も聞いていたんです。それらが伏線としてあったという感じがしますね。
そして4,5年くらい前から、古典芸能を見始めたんです。そして2〜3年前から、その凄さに気が付き始めた。これはすごいものが含まれているということに気がついたのです。これは心を勉強させていただく者として、これはもう絶対勉強してここのところを表現できるようになりたいなと思い始めたんです。
院生:
その古典芸能から、今の時点で先生が得られてきた新たな知見だとかわかったことはどんなことなんでしょうか?
秋田:
一言で言うと、「褶振・狂舞」という言葉で表せますね。能の中でも、物狂い能という分野がある。どういうことかといったら、影の統合というようなことでなくって、自分の問題、影とか傷とかを舞うという、そういった感じが表現されている。そういう感じが表現されてるものが古典芸能には多いんですよ。天女の舞みたいなものをイメージしてくれたらいいと思います。天女の舞は、天の羽衣みたいなものと一緒に舞っているんですけど、あれを「羽衣」とするのではなく、「傷」であったり、「影」であったり、自分の問題であったりと考えるのです。それがもっとしんどい人の場合は「狂い舞い」としか言いようのないものとなる。しかしそこに見事さや美しさを見出そうとする働きが、古典芸能にはあるのです。能でも、歌舞伎でも文楽でも。それをまた、「狂美(狂いの美)」だとか「傷美(傷の美)」だとかと言っています。
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