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Vol.7 魂、そしてインターネット。マルチな高石先生に文教の院生がインタビューを行ってきました。

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● 臨床家としての自分と素の自分

院生:
次の質問になりますが、臨床家には、素の自分と臨床家としての自分が重なっているタイプと、素の自分と仕事モードの自分をはっきり分けてやっているタイプがいるなと思っていて。私たちから見たら、高石先生は分けてやってる感じがするなと思うんですけど?
高石:
それはどこを強調するか、ということかなと思う。カウンセラーのときに、日常の自分と落差のあるような“物静かな高石”が顔を出してしまうと、演じているわけだから嘘になるよね。そうすると、ちゃんとクライエントさんの前に立ってないということになるから…まあ、座ってるんだけど(笑)。はっきりここだけは変えてるという点は、仕事である以上、基本的に「能動的に傷つけない」ということかな。カウンセラーモードのときは、自分が傷つくようなことを言われたりされたとしても反撃はしないで、「なんでそこまで言うのかな」、「そこまで追い込まれてるのかな」と一歩距離を置いてみる。そういうところは意識してるけど、でも大きな落差があるかといえば、カウンセラーの自分と日常の自分とは、そんなに落差はない。 でも多分、僕は多重人格的なものが大好きなんです。最近気がついたことなんだけど、「甦る金狼」とか「スーパーマン」とか、日常は頼りない、どうしようもない存在なんだけど、いざとなると頑張るぞみたいな、ああいうまったく逆の二面性のあるキャラクターとか多重人格的なものが、基本的に僕は好きです。「ジキルとハイド」が僕にとって刷り込みの物語かもしれない。だから見かけはヘラヘラしながら、影でこそこそ勉強したりとかしてる(笑)。そういうところに自分の美学を求めるところはあるかもしれない。
院生:
色んな面があるのが高石先生なんですね。
高石:
そう、それは意識していますね。トータルとして僕。自分のメインの研究を一つをあげてくださいって言われるのがすごく嫌で、全て見せて、「こんだけ全部が僕です」って言う。(だからコース制も嫌い(笑)。)僕はいろんなことをマルチでやっているし、マルチでやっているということに、僕のアイデンティティがあると思っていますから。

● 教員として、臨床心理士として

院生:
話戻るかもしれないんですけど、教員としての高石先生と臨床心理士としての高石先生の共通項、重なる点は?
高石:
大学院教育の中では、その人がその人らしいカウンセラーになっていくプロセスをバックアップすることが教員としての仕事だと思ってるけど、それとカウンセラーとして、クライエントがその人らしく生きていく、個性化、自己実現していくっていうのとはかなりかぶる。そういうときに臨床的な方法論、その人が自分で道を見出していくのを傍らで援助していく。と言うと聞こえはいいけど、要するに黙ってみているということがカウンセラーのやり方だね。それがどこまで出来るか。先生という名目で、どこまでできるか挑戦するみたいな感じかな。
院生:
挑戦とは?
高石:
どこまで教えないで、その人が自分で道を見出していく後をついていけるか、ってところで挑戦している感じ。まだ、僕は教えすぎるんだけどね。それはものすごく自覚している。それをどれだけ差し控えていけるか。
院生:
それは学生を信じているからですか?
高石:
その言葉は非常にフィットするね。昔、文教に着任する時に、河合隼雄先生に「学生を教える際に何が一番大事ですか?」って聞いたことがあって、「生徒を信じることやな」と言われた。信じてると、その人は正しい道を見つけるんだ。これはクライエントにも当てはまることやね。信じることが出来たら、黙っていられるわけだけど、信じることができないから、ついつい余計なことを言ってしまう(笑)。放っておいたら変な方向行くんじゃないかって…。信じるって簡単に言うんだけど、河合先生に言われたのは「一所懸命信じる」ってこと。この一所懸命っていうのがミソで、一所懸命じゃないと、ついつい信じられなくなる。そこらへんが教育にも臨床にも通じる部分で、必死で言わないようにしないといけない。言うほうが楽だもん。「こうしたらいいじゃん」て言って、失敗したら「へたくそ」って言えばいい。言わずに我慢するほうが遥かにしんどい。すぐに教えてしまう。だからとりあえず、教えないような顔をして、教えるように努力をしています。
院生:
学生からすると教えてほしいという気持ちがあります。
高石:
でも教えてもらったことって、実は覚えていないでしょ?教えてもらってうまいこといったら、それでラッキーって忘れてしまう。教わってわからないことや、失敗したことは覚えている。河合先生から教えてもらったことは、全然覚えていないもん。
院生:
それはうまくいったからですか?
高石:
うまくいったからというより、そのときに分かったつもりになっていることは残らないじゃない?自分の中で違和感のあること、自分にはわからないことを、ポンと言われたことしか残っていない。それを教員としていかに言えるか。ポンとこの辺のことを言われて、「わからないなあ…」と考えるんだけど、そこへたどり着くまでのプロセスは教わったことでなく、自分で発見したものだから、その人を育てるし、自信につながる。人に教わると、自信にはならなくて、だから結局毎回聞くことになる。自分で発見すると、それ以上聞かなくてすむでしょ。
院生:
そういう風に、“この一言”っていうのを教員としては言いたいなと思うんですか?
高石:
言いたいなって思うんだけど、もう1つ最近発見したことがあって、言った側は思いつきで言ってるから、実は自分が言ったことは全然覚えていない。むしろ、聞いた人の方が覚えている。「先生こんなこと仰ってましたよね?」と言われて、そんな立派なこと言ってたのかな?と思うわけですよ。ニュアンスが違ってたり、全然伝わってなかったりする場合もあるけど、その人の中であれこれ考えているうちに、その言葉が別の意味を持ったり、もっと立派な意味を持ったりする。結局、僕らの仕事は思いつきをポンと言って、後はあなたたちに任せる。考える人は、考えて悩んで自分の答えにたどり着くし、そうなった時には、その思考はその人のものとして育っていく。そう思うと最近、すごく気が楽になった(笑)。伸びるやつは伸びるし、伸びないやつは伸びない。とりあえず、何でも良いから違和感があることを言っておいたらいい。違和感があれば、その人はそれに向かって考えてくれる。
院生:
それは学生だけじゃなくて、クライエントさんにも?
高石:
うーん、クライエントさんにはそれは恐いなと思う。統合失調症圏の人たちは、こちらのメッセージを歪んで受け取ってしまうから、そこはやっぱり学生さん相手にする時ほど、能天気には対応できないと思う。言葉を選ぶし、その人が思っているのと大きくずれないところで、非合理なことに沿うのではなく、合理的な部分に沿っていくとか。そこはセラピーと教育との違いかなと思う。
院生:
より合理的な方に導くのですか?
高石:
うーん、合理的というより、健康的な部分に向けて反応していくということかな。重いクライエントさんの場合だと、もう一段深いレベルで信じるということをしなければならないかもしれない。
院生:
もう一段深いレベルで信じるとは?
高石:
もっと無意識的なところで患者さんの持っている健康さとか、治りたいという意欲とか、生きて行きたいということとか、根本的なところに対して信じれるなら、信じて待つということができるのかなーと思ってね。でも、これはかなり根性いる。
院生:
信じてぐっと待つ感じですか?
高石:
僕はずっとこの言葉と格闘している。「信じて待つ。何もしないことがセラピー」ということをどうやって実践するか。心理療法の基本はそこだと思う。そう思いながら、もう一方でプログラム的なセラピーとか、教育的なセラピーとか、クライエントを待つんじゃなくて、こちらから出向いていくセラピーとか、そういうのも積極的に勉強して実践しようとしている。根本的には、クライエントさんを信じて待つようなセラピーを1つの理想型としながら、現実にはPSW的に自らが動いて、クライエントさんと一緒に歩くようなやり方まで実践に取り入れていくということをしている。そこでの矛盾、理想型と現実にやってることとのギャップから、たぶん何かが出てくる。すごい矛盾抱えてやっているんだけど、そこから自分のスタイルが見つかってくるんじゃないか、っていう思いがある。だから、矛盾したことを言ったりやったりしている(笑)。すっきりしてる方が格好はいいんだけど、何も出てこないような気がする。言ってることとやっていることが違っていると思われても、実際に体験しながら、こういうこともやらなければいけないとか、バランス取りながら自分の中で矛盾を抱えながらやる、というのが一番自分にはフィットするという感じでしょうか。
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