卒業式学長式辞 平成16年度 (2005.3.18.)  樋口和彦学長

卒業生諸君に贈る餞(はなむけ)の言葉

 本日晴れて京都文教大学の学部および大学院をご卒業になる皆さん、ご卒業、本当におめでとう御座います。また、この様に晴れの日を迎えた卒業生諸君のために、お忙しいところをご臨席を給わりました、浄土宗知恩院御門主様からのご来賓を初め、長い間ご子様をお育てになったご父母の皆様、この大学の設立や運営に当たった学校法人のご関係の方々、この式に臨み華を添えて頂きましたこと誠に感謝致します。卒業生の学生諸君と共に、また教育に当たりました教職員総てを代表しまして、壇上より心からお礼を申し上げます。

 さて、この栄えある2004年度卒業式には、一段の喜びを私達に添えるものがあります。特にこの度は、この2002年に大学に博士課程が新設され、ここにめでたく、わが国最初の臨床心理学博士、正式には博士(臨床心理学)(京都文教大学)がここに誕生したことでございます。このためには、今日まで大学で教えた教職員を始め、仲間の学生達が、またご本人の努力がこの栄誉を受けられたのであります。これによって学校法人京都文教学園が幼稚園から、小学校、中学校、高等学校、短期大学、学部大学、それに修士課程、博士 課程を有する誠にコンパクトでありますが、ユニークな総合学園として完成をみたわけであります。また、この4月から我等の新博士が、大学の教員チームの一員に加わってくれることになっております。自らが教育を受けたこの大学で、受けたものをお返しする尊い仕事が始まります。わが学風がこれからの学生に受け伝えられる道が開かれたことは、誠に意味深いことと存じます。

 時あたかも我学園は100周年を迎え、昨秋盛大に祝典が執り行われ、100年史を発行し、世界的にも著名な学者をお招きして、学術記念講演会を行いました。一同これから創立200年に向かっての新しい第一歩を踏み出したところでございます。

 諸君、ところでご承知のように、皆さんが卒業して出られる世界は、今や将に大動乱と不安定な時代の真ん中におります。この世界は今やバランスを失い、どこも、個人といわず、国家といわず、利害が対立し、エゴ丸出しでの混乱の時代へと突入したかに見えます。そして、アメリカのような強大な力の国といえども、新しい時代に突入して建国以来初めて経験する内なる困難にも出会っております。また、わが国も例外ではなく、国内的にも安全であるべき学校のキャンパスすらも、暴力に見舞われ、これに対抗せんとする時、純粋な宗教的な良心すら、無力に見えるほどであります。

 この様な時代の嵐の中に、諸君を今社会に送り出すにあたって、学長としてどの様な言葉を餞に贈ったらよいか、大いに迷うとことであります。私に与えられた時間は少なく、端的に私の言わんとすることを述べ、若い諸君へ餞の言葉と致します。

 第1に自分の「からだ」(体)を大切にして下さい。若い皆さんの肉体はこれから、60年、70年、80年と使わなければなりません。私の生きた時代は人生50年、しかも、戦争で20を過ぎれば死ぬことが相場で決まっていた時代でありました。「からだ」は貴方の死の最後まで一緒に同伴します。そして今青春の溢れる「いのち」がその体に盛られています。体を最後までおいとい下さい。どんな状況にあっても、自分を憎まないで、折り合い、付き合い、祖先から受けた尊い「いのち」で、貴方の「いのち」の分を全うして下さい。もって生まれた可能性の美しい花を精一杯咲かせて下さい。

 第2に如何なる状況でも、この大学に学んだ者は所謂「絶対主義者にならない」こと。真の宗教は決して絶対という自分を立てて、他を全部滅ぼしはしません。とかく、硬く宗教を信じたものは、他を滅ぼす誤りを犯してきましたが、キリスト教でも、神道でも、イスラム教でも絶対主義者はみな同じです。その点で仏教はおしなべて世界宗教でありながら、寛容である一大特徴をもっております。我々は追い詰められた時、残された手段としてのテロリズムに同情しつつも、激しく憎みます。それは敵対するものは撲滅する、という絶対性を内に秘めるからです。昭和の歴史を不幸に導いた日本のテロリズムもまた同様でありました。

 諸君はどんな場合も決して「絶対主義」に陥らず、対手を立ててdialogue(対話)ができる個人になって下さい。対話とはどんな相手とも話しあいが出来る能力を指し、一見消極的にみえるが、実はそうではない。真の対話者は、静かな勇気ある力の人であり、どんな場合も諦めず相手と話が出来、相手の力を認める人を言います。「話しても分からない」とは最後まで思わない人を言うのです。

 この「対話」は、近代社会も18世紀の啓蒙主義者の時代になってから社会に入りました。現在の世界の大学もその思想的基盤はこれに依っています。宗教的絶対性の一元的支配の時代から、多元的人間の対話の時代へと入ったのです。近代イスラム教は今将にその苦悶の中にあるといえます。

 しかし、いま「話せば分かる」という楽観的な対話の世界、つまりモダン(近代)の世界は終焉をみつつあるように見えます。「話しても通じない」対話不要な世界が現に出現しています。生の絶対の力がぶつかり合うポストモダンの21世紀に、今我々は突入しています。再び「新たな絶対性」を克服をして、新しい対話を模索する時代へと我々は突入しているのです。

 諸君、文化人類学を学んだ人も、臨床心理学を学んだ人も、現代社会学を学んでいる人も、自分と同様に他者を立て、それと対話することがいかに困難であっても、それを通してのみ道が開かれることを肝に銘じて下さい。そこに両者の予想だにしない新しい成果が得られるからです。

 dia とはギリシャ語で中間を意味しますが、同時にそれを「通り抜く」ことをも意味します。つまり、dia logos ロゴスが通じて対話が成立するのです。それ以外の道は能率的に見えますが、他者破壊へ導く短絡的な近道であります。そこに臨床的学問たる我が大学の学風があります。これが「共生き」であり、人間の命の道であります。諸君はどうか力のある対話者になって、素晴らしい人生を切り開いて下さい。

 若い諸君の前途は洋々としています。長い人生には数多も危機もあるでしょう。しかし、貴方が危機と思った時こそ、それが本当の危機で、危機には客観的な基準などありません。「なぜ、今貴方はそれを危機と考えるか」考えて下さい。100万円懐にあっても危機と考える人もいますが、1000円でも友達と飲みに行こうと考える人もいます。どうか、幾つもの危機をのり超えて、ここ槇島の青春の日々を憶えて、明るく、毅然として、顎を天にあげ、「いい日旅立ち」をして下さい。お幸せに。これをもって学長の餞の辞と致します。