あーゆす15号2頁

自己完結するコミュニケーション
教授(意味論・記号論)  森 川 知 史

現在のコミュニケーションの多くが、決して相手へと広がらず、自己中心的に自分のうちに閉塞してしまっているように思うのは、私ひとりだろうか。

言動をする人と人相互のやりとりがコミュニケーションだったはずだ。その過程で意味の共有が確認され、他者との共感が生まれる。コミュニケーションを通じてより確かな自己が育まれていく。ところが、このメカニズムが、いまの社会ではうまく機能していないように見える。

連日のようにメディアは、理解しがたい青少年の事件を報じ、現代人の自己中心的な言動について論じ、「自己チュー」ということばさえ作られた。無論、メディアの論調がどの程度ことの本質を捉えているかは疑問なしとはしないが、大きな視野で眺めたとき、このことが現代人のメンタリティの一側面を捉えていることに間違いはないように思える。

「他者と何らかのものを共有すること」がコミュニケーションであるとすれば、自己中心的な言動は、明らかにこれと正反対の行為だ。相手の言動を予測したり、相手の言動に応答したり、共感したり、という言動には、相手の側から自分の言動を捉え直す内省が必要だ。相手と「共有する」ためには、自分だけではなく相手のこと、他者のことを考えるということがなくてはならない。

だが、多くの場合、現代人のコミュニケーションでは、「何らかの新たなもの」が共有されるのではなく、それぞれの「自己世界」の内部で自己完結してしまっているように見える。それがコミュニケーションであるかぎり、多くのことばが費やされ、意味や価値が二人の間で交換されるのだが、相手の応答から自分の理解や認識や思考を変えることをせず、どこまでも自己中心的に相手への働きかけを繰り返す。このような自己完結したコミュニケーションが増えているように思えるのだ。

近年、自分や誰かについて、身に付けている服やアクセサリーなどで説明する人が目立つようになった、との指摘がある。「私、ヴィトンのひとなんだ」とか「あの子はシャネラー」というように言うのだが、こういう行為を「モノ語り」と呼ぶのだそうだ。自分を演出するのにブランドというモノに寄りかかり、ときには自身の経済力以上のモノを身に付ける。彼らはブランドで飾られた自分に満足を感じるのだろうし、その限りでは、自己愛の強い人間だろうから、「モノ語り」の人たちが交わすコミュニケーションは、どこまでも「自分」へと向かう自己愛的で自己完結的なものだと言えるだろう。

ただここで、間違ってはいけないのは、「モノ語り」の人たちが必ずしも強烈に「自己中心的」な人たちとはかぎらない、という点だ。確かに、モノに寄りかかって自分を演出することに夢中になるのは、相手ではなく自分にばかり注目する行為だと言えるし、モノにばかりこだわるのは、相手や他者という「人」に関心のない身勝手な態度とも見なせるだろう。しかし、彼らがこだわる「自分らしさ」がブランドというモノに寄りかかったものであることを考えると、彼らの「自己」の頼りなさが見える。彼らは常にブランドによってしか「自己」を語れないし、そのブランドの意味を共有してくれる少数の理解者から承認されなければ、彼らの「自己」は維持できないのだから、「自己中心的」になろうにも彼らの「自己」は極めて頼りないのだ。

確かな「自己」(自分らしさ)は、相手や他者との関係に支えられて初めて手に入れられるものであって、いくら高級ブランドやグッズで周辺を飾ってもだめだ。「モノ語り」が繰り返され、コミュニケーションが自己完結しているかぎり、揺るぎない「自己」を発見できる場としての「他者」が現れてくることはない。

「モノ語り」をする人たちは特殊な人たちだ、と考えない方がよいだろう。彼らの姿は、現代に生きる私たちの「典型」ではないか。自分を大切にしたい気持ちが強すぎるために臆病になって、他者の奥深くに跳び込むことができず、自己中心的に振る舞いながらも、いつも自己への不安を抱えている。対人関係での、こういう矛盾した葛藤は、現代に生きる私たちの多くに内在する問題ではないだろうか。

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