あーゆす20号4頁

ことばともの、彼方と此方のあいだに−椿昇展評
文化人類学科・専任講師(文化人類学)  佐 藤 知 久

京都国立近代美術館で2009年3月に開かれた展覧会「椿昇 Gold/White/Black」は、人類学的にみても極めて興味深い展覧会だった。

作品について簡単に述べよう。作品は四室に分かれて展示されている。第1室には、南アフリカの坑夫たちを丹念に描いた巨大な画像が12体。第2室にはこれも巨大な露天掘り鉱山の写真と、世界各地の露天掘り鉱山の形状を小さな金属の塊に彫り込んだオブジェクト。第3室にはエルサレムの聖墳墓教会のドアを模した物体と、バングラデシュの犠牲祭を写した映像(何頭もの牛が喉をかき切られ犠牲に供される)。最後の部屋にはパレスチナとイスラエルを隔てる壁をモチーフにした大きなキャンバス画と、パレスチナで収集したジョークを手書きした紙片が展示されている。

作品の背景には作家の「旅」がある。椿氏が世界各地を旅した結果として何かが生まれる。旅 = フィールドワークの成果として作品が作られる点で、椿氏の仕事は人類学者のそれに似ている。

だが人類学者なら、事物の意味や苦悩する人びとの声をことばを尽くして述べるところで、芸術家椿氏は沈黙する。

人類学者は自身が経験したものごとを、フィールドを訪れることができない読者に説明しようとする。人類学者は多くのことばで語る。それとは対照的に椿氏は、あらゆる説明を排し、事物をその厳選され、研ぎ澄まされたイメージによって示そうとするのだ(展評ではこのことばの無さが不評のようだ)。

確かに人類学者ならこのような展示はしないだろう。事物をその文脈から切り離したり、他の文脈に属する事物と並べずに、人類学者は異文化の人や事物を政治的・社会的な〈文脈〉のなかに「正しく」配置しようとするからである。しかし逆説的なことにこの展覧会は、こうした反人類学的手続きによって、そこで言及された人や事物の現在について、そして私たち自身の生のあり方について、人類学的展示に優るとも劣らない力強さで、思いをめぐらせ感じとろうとする状況をつくりだすことに成功しているのである。

さらに重要なのは、この展覧会が決して何か正しい現実 = 「真実の表象」を提示しようとしているのでも(それは第4室のユーモアによって明らかである)、また作家が作品の中に自身の思想や解釈を埋め込み、それを鑑賞者に解読させようとしているのでもないということだ(それにしてはあまりに無言すぎる)。

この展覧会を準備する上で、山浦玄嗣氏の仕事に出会ったことが決定的だったと椿氏は述べていた。それは古代ギリシャ語で書かれた福音書を、東北地方の一方言、「自分」たちにわかることばへと翻訳した一人の医師の仕事である(『ケセン語訳新約聖書』)。福音書の世界という彼方の文脈だけでなく、読む側たる此方の文脈に対しても誠実たろうとした(山浦氏の仕事は精密である)結果、私たちは古代キリスト教の世界でもない、また現在ここにあるのでもない、まさにこの翻訳において初めて拓かれた、圧倒的に新しいとともに親しみを感じる空間へと招かれていく。

椿氏の仕事はこうした作業を、現在の世界について試みたものであるといってもいい。

彼方と此方。フィールドでもホームでもない。両者と関わるからこそ拓ける新たな空間、そここそが現在何かを考え、人びとと語りあうのに適した場所であることを、この展覧会は示している。

(さとう ともひさ)

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