あーゆす21号1頁

活 字 の 力
家政学科・特任講師(中国文学・仏教学)  林   雅 清

 高校時代、私は年間100冊近くの本を読んだ。自宅から電車でおよそ1時間かけて高校に通っていたことから、その通学時間を利用して、およそ2日か3日に1冊のペースで読んでいた。ただ、本といっても、ほとんどが文庫本だった。伝奇小説・歴史小説・推理小説・SF小説……ジャンルは多岐にわたるが、中でも歴史や神話、伝説など私の興味と知的好奇心をそそる分野が好きだった。なぜ文庫本かというと、それはもちろん持ち運びに便利だったからである。最初はカバンに忍ばせていた文庫本が、しだいに学生服のポケットの中に堂々と常駐するようになっていった。

 本好きかそうでないかは、その人の育った環境がものをいうのだろうか。そういえば、私の場合母親が読書好きで、蔵書(本のコレクション)も多かった。けれども、同じ家で育った弟は小さい頃から活字を読むという行為が苦手だったようで、本はもちろん漫画すらもほとんど読まなかった。「説明書」の類も一切読んだことがないという。ということは、本の好き嫌いに必ずしも家庭環境が強く影響するとは言えないようである。

 「本を読もう」、そんな標語が、書店のキャンペーンなどで時折見られる。「読書の秋」という言葉も、毎年台風と共に(?)やってくる。しかし、若者の「活字離れ」が叫ばれて久しい昨今、「ケータイ小説」なるものも流行りだし、いよいよ活字が読まれなくなってきているのではなかろうか。

 ところで、活字とはいったい何なのだろう。今では一般的に印刷された文字や本を指して活字といい、自分の意見を本や論文にして発表することを「活字にする」と言ったりするが、もとは活版印刷に用いる「文字」そのものであった。一文字ずつ彫った「活字」を組み合わせて印刷するのが「活版印刷」である。一度彫った「活字」は組み替えることによって何度も使えるため、活版印刷の発明によって印刷技術は飛躍的に発展した。それまで用いられていた「木版印刷」(版木と呼ばれる一枚の板に文字をすべて彫って墨で刷る技法)の文字が一度彫ったら動かせなかったのに対し、何度も転用できる動かせる文字なので、「活きている文字」=「活字」と呼ばれるようになった。

 ちなみに、「活字」の発明は中国である。11世紀中ごろ、北宋の畢昇という刻工が、膠泥(モルタル)を用いて「活字」を作り印刷を行ったのが、活版印刷のはじまりである。西洋において近代活版印刷が普及しはじめたのは15世紀半ば(ドイツのヨハネス・グーテンベルクが発明したと言われている)であるから、現存最古の木版印刷が日本の法隆寺に残されている『百万塔陀羅尼』(770年)であることとあわせて考えても、東洋の印刷技術がいかに優れていたかがわかるだろう。

 さて、そんな優秀な技術を背景に生み出されてきた活字たち(もちろん現代の印刷は「活字」を用いたものではないが)が、時代を経てどんどん読まれなくなってきているというのは嘆かわしい。

 「文字」はパソコンや携帯電話で読んでいると言われるかもしれないが、やはり画面上の文字と活字は違う。活字には「力」がある。画面上の文字とは違って活字は常にそこに「ある」し、広範囲の文字が同時に視界に入ってくる。文章を読み進めるにも戻って読むにも、一々「スクロール」しなくてよい。文章全体を見渡すことによって、単に文字を読み進めていくだけでは気づかない「発見」(例えば、漢字とかなの配分などに見える文章の美しさなど)があったりもする。いつでも何度でも読み直せ、必要があれば自由に書き込みもできる。そして何より、読書による「想像力」と「感動」をダイレクトに与えてくれる。

 いつか、電車の中で『島津奔る』(池宮彰一郎著)という小説を読んでいたとき、涙が止まらなくなったことがある。耳に登場人物の声が聞こえ、目に場面の映像が映し出され、脳裏にBGMまで鳴り響いたのだ。

 また、海外留学中は母国の言葉で書かれた活字を読むことによって、一種の安心感を得ていた。

 そんな感動や安心感を与えてくれる「活字の力」は、まさに人間の「活きる力」なのである。いま一度、「活字の力」を見直してみようではないか。

(はやし まさきよ)

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