あーゆす21号6頁

『食堂かたつむり』を読んで
家政学科・食物栄養専攻1回生  伊 東 麻 衣

 近年、私たちは「命を食べる」ということを軽々しく考えてはいないだろうか。マクドナルドでハンバーガーを食べる時、牛の命を食べていること、ファースト・フードの店でサラダを注文した時、野菜の命を口にしていることに気が付いているだろうか。いや、食べ物の命のことなんて考えていないだろう。自分たちの腹を満たすために食べ、満腹になれば残したものを捨てるのだ。私自身、「いただきます」という言葉さえ忘れかけていた。

 小川糸著『食堂かたつむり』には、「命を食べる」ということが温かな親子の愛情とともに物語の中で書かれていた。私は、食べることについて改めて考えるきっかけとなったこの本を皆さんに紹介したいと思う。主人公は、二十五歳の女性。十五歳の時に田舎を出て都会のはずれにある祖母の家で暮らしていた。祖母に料理を教えてもらいながらトルコ料理店でアルバイトをし、将来はプロの料理人になろうと決めていた。しかし、ある日祖母が亡くなってしまう。彼女は、悲しみにくれながら消沈した毎日を送っていた。そんな時、一人のインド人男性と出会う。二人で小さい部屋を借りて暮らしていた。だが、幸せな日々は続かず、突然インド人男性が姿を消してしまう。出会いと別れが一気に来て、彼女は声を失ってしまう。そして実家へ戻ることになる。物語はここから始まるのだ。実家で待っていたのは、幼いころから不仲であった母と、エルメスと呼ばれる豚。そこは、自然に囲まれた小さな村で、彼女はその土地で自然の食べ物と自分の料理の腕を生かし料理人になることを決意する。作った料理に食べた人が幸せになるよう思いを込めた。すると、料理を食べた人に奇跡が起こるようになるのだ。彼女は、田舎で過ごすうちに「私たちは料理に使う食べ物の命をもらって生きている」ことに気づき、「その命は私たちの中で生きている」ことを知る。

 本の中で主人公が数分前まで生きていた動物を料理する場面がある。包丁で頸動脈を切断する。動物は、多くの赤い血を流す。目を背きたくなるような場面だが、主人公は、見なければいけないと強く思い必死で息絶えた動物を見る。この場面を読んだ時、私は、知らなければならない背景を今まで無視し出来上がった姿を当たり前のようにとらえていたことに気がついた。例えば、スーパーに行けば必ず置かれているハム・ソーセージ。どれくらいの人がその背景を見られているだろうか。私は自分を含めほとんどの人がハム・ソーセージの表面ばかり見ているように感じるのだ。まるで、そのままの形でどこからか発生したもののようにとらえている。しかし、その背景を見れば、生きていた動物であり、誰かが死を見て加工した食べ物なのだ。スーパーで大量に置かれている食品は、その分生きていたものたちが犠牲になっているのである。この事実から私たちは目を背けてはいけないのだ。本の中の主人公は、生きていた動物の命を無駄にしないで料理し、人が食べるときのことをこのように言っている。「姿を変えて、また新たなステージの一歩を歩み出す。今度は人間の体に入って、中からその人を元気づけてくれる。命が継承され、慈しまれる。」まさにその通りだと思った。料理をするというのは、命を無駄にしないで最大限のことを行うこと。食べる行為は、「命を食べる」ということ。食べ物が豊富にあり、食べきれなかったら簡単に捨ててしまう今の私たちにとって決して忘れてはいけないことなのだ。

 この本を読み終えた後、私は料理をする時や食べる時に対する気持ちが変わった。今まで意識しなかったことを考えることができるようになった。私たちは、生きていくうえで、可哀想だから動物を食べないということはできない。しかし、その命に感謝し、手を合わせ「いただきます」と言うことはできる。そして、今の世の中だからこそ皆さんにこの本を読んでほしい。

『食堂かたつむり』小川糸著/ポプラ社

(いとう まい)

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