あーゆす6号2頁

書物との値遇
京都文教大学助教授  平岡 聡(仏教学)

子供の頃、読書が嫌いだった。40ページ以上本を読んだ憶えがない。中学・高校時代も読書に関する思い出は見当たらない。そう、高校3年生の時だ。寺に生まれた私は、将来、僧侶になるものと決めてはいたが、葬式や法事のイメージしかなかった仏教に積極的な意味を見出せず、したがって進路選択に際しては、大学で自分の好きな英語の勉強をしようと考えていた。佛教大学なら英文科もあるし、僧侶の資格も取得できる。一石二鳥だ。

英文科で出願すべく願書を作成し、さあ明日ポストに投函という段階で、今思い出しても不思議なのだが、何かに導かれるように父の書斎に入ると、何気なく仏教に関する一冊の本を本棚から抜きとり、パラパラとページをめくって驚いた。何とそこで説明されていた仏教は、私の仏教観を根底から覆す人生哲学そのものであったからだ。たったの数ページが、私の人生に決定的な方向性を与えてしまった。英語の勉強などしている場合ではない。仏教だ。仏教の勉強だ! 再度、願書を取り寄せ、仏教学科での出願に変更。もうそれは「仏のお導き(仏縁)」としか説明できないような体験だった。そんな大切な本の題名を憶えていないのは何故だろう。

大学に入って、ようやく私の本格的な読書人生が始まる。それまでは受け身だった読書が、攻めの読書に変わった。とにかく専門書を読み漁る。読んだ本を片っ端から本棚に「飾る」。一冊、そしてまた一冊。本棚も一つから二つ、そして三つと、四畳半の狭い下宿を手狭にしていくのを見ては喜んだ。その知識が目に見える形で確認できるからだろうか。四畳半の下宿はいわば私の脳そのもので、読み終えた本が知識として脳の隙間を次から次に埋めていく感覚を視覚的に味わっていたのかも知れない。また本の醸し出す雰囲気も大好きで、大量の本に囲まれていると心が落ち着く(最近ではこの雰囲気欲しさに「積ん読(つんどく)」が増えてきた)。さて、学生時代に読んだ本で印象に残っているのは、西谷啓治『宗教とは何か』(創文社、1961)である。内容は宗教の本質および仏教の「空」思想を哲学的に考察したものだ。この本は実に難解で、一語一語を丹念に咀嚼(そしゃく)しながら読み進んだため、読破するのに1週間を要したが、私自身の存在に根源的な変革を迫る重厚な一冊であった。

学生生活を終えた私の職歴は、京都文教短期大学非常勤講師を濫觴(らんしょう)とする。短大生を相手に仏教を教えるのだが、彼女たちは実に手強かった。仏教の知識しかない私の話を10分も静かに聞いてくれない。2年ほど暗澹(あんたん)たる日々が続き、これを一生の仕事にするのかと思うと、大きな虚無感が私を包んだ。「もっと彼女たちの心にアピールする形で仏教の核心を伝えなければ」と考えていた矢先、読書通の先輩から一冊の本を薦められた。立花隆・利根川進『精神と物質 : 分子生物学はどこまで生命の謎を解けるか』(文芸春秋、1990)である。文系一辺倒であった私に理系の本は新鮮であった。真理発見の醍醐味を遺憾なく味わわせてくれた一冊である。

それ以降、仏教の専門書以外の本との出会いが始まる。他分野の本を読み進めて行くと、意外なところで仏教との接点が確認でき、仏教思想の汎用性・融通性に驚かされたが、これを授業に取り込むことで、以前は絶望すら感じていた仕事に、ようやく一縷(いちる)の光明が見出せたのである。今となっては、私を厳しく鍛えてくれた手強い短大生と、私を優しく導いてくれた素晴らしい本たちに感謝!

自分の半生を振り返った時、その岐路には必ず本との出会いがあった。一冊の本がその人の人生を根本的に変えてしまうことがある。残された私の人生にもまだ幾つかの岐路があるだろうが、その時に私を待ち受け、導師となってくれるのは、どのような本であろうか。書物との値遇(であい)を求め、新たな旅が再び始まる。

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