あーゆす6号4頁

『 蜘 蛛 の 糸 』 を 読 ん で
幼児教育専攻2回生  浦  紘 子

犍陀多(かんだた)は数々の罪を犯し、地獄へ落ちた。文字通り"救いようのない"男である。実際、この男は、地獄に落ちても全く反省などしていなかったと見える。だが、そんな犍陀多も、たった一度ではあるが、善い行いをした。人を殺し、放火をし、悪事の限りを尽してきた男がである。一度は踏み潰そうとした蜘蛛を助けてやったのだ。

なぜ彼は、一匹の蜘蛛に哀れみを覚えたのか。人には、おそらく誰しも - 例えどんな極悪非道な人間でも - 心に光が差し込む様に、絶対に悪事を働くことができない瞬間があるのだと思う。また、どんな人間も『善』の性質を持ち合わせている。そうだと私は信じている。

彼は、それ相応の報いを与えられる。「自業自得」という言葉がある。自分の行いは良いことにしろ、悪いことにしろ、いつか自分に返ってくる。罰を受けるも慈悲を受けるも本人次第だ。

お釈迦様が彼に与えたのは、細い蜘蛛の糸であった。しかしせっかくの救いにもかかわらず、その糸を伝い犍陀多と同じく上へ行こうとする罪人たちに糸から下りろと叫んだとたんに糸はプツリと切れてしまう。そして、彼は地獄の底へと落ちてゆく。それはお釈迦様の力によるものではなく、犍陀多の心に渦巻く利己的な考えと無慈悲な言葉によって、引き起こされたことなのだ。犍陀多が自ら招いた結果なのである。

糸に罪人達が群がっているのを見た犍陀多の心には、慈悲よりも利己心がより多く生まれていたのである。

彼に限らず利己的な面もまた、たいていの人間に潜んでいるもののように思われる。それは人をよい方向には導いてはくれない。むしろ悲しい事実を引き起こすだけである。そんな生き方では、いつか身を滅ぼしてしまうと思う。自分の行為の報いは、自分で受け止めなくてはならないのだから。地獄に落ちた時点で犍陀多は気付くべきではなかっただろうか。

地獄から抜け出せるかもしれないという頼みの糸を逃すものか、他の誰にもやるものかという考えが極楽へと続く道を断ってしまったのである。そう、犍陀多は、他の人間を全て目的を成し遂げるために邪魔であるとみなした。人を蹴落とそうとして、自分一人だけ助かろうとした。それが間違いなのである。

「幸福」は他人と共有してこそ、本物の幸福ではなかろうか。人を見捨てて、傷つけ、そして手に入れたものなど、そうやって見出した幸福など、何の価値があると言うのだろう。誰かを"不幸"という場所に置き去りにして、自分だけが幸福を得ようというような浅ましさでは、未来永劫、彼は地獄で悶え苦しむことになるだろうと思う。

地獄と極楽との間は、何万里という距離なのだ。そこをたった独りで上がってゆくのならばやはり、絶え難い孤独感も襲うだろう。しかし、そんな時に、人に救いの手を差しのべることで、自らも救われることもあるのだ。しかし、彼はそのことに全く気付かずにいた。彼の人生は慈悲や助け合いというものとは無縁だった。

蜘蛛の糸がたどり着くところは、単なる地獄のはてに止まらず、ひいては極楽へと約束された正しく真っ当な人間の道であっただろう。そして糸は、上る人 - 救われる人間 - が多い程太く強固になり、犍陀多を極楽へと確実に連れて行ってくれたであろう。彼もそこで善良な人間になり得たのに……。せめて、地獄の底へ落ちてゆく犍陀多がそれに気付き、悔いていたことを願う。

著者は、私達に示してくれている。人間の持つ利己心というものの恐ろしさを。そして報いは必ず戻って来ると。しかし、これは逆にも解釈することができる。幸福をつかむためには、良いことをせよ、良いことをすれば、それは自分に返ってくるのだと。

『蜘蛛の糸 杜子春』 芥川龍之介 著 / 新潮文庫

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