あーゆす7号2頁

僕の名はトン吉君
教授(器楽)  小 川 隆 宏

「秋の夕日は釣瓶落とし」とはよくぞ申したもので刻々に迫る夕やみ、まるでスライド映画を見ているようだ。この町に宵が訪れるといずこからともなく人気が増え始め夜遅くまで賑わいを呈する。御池から北は大人のやや上品な町、南は四条辺りまでは若者たちのグループの街、とはっきり別れる。軒並みは食堂街と言うよりも、少々小粋な町である。この町を名付けて木屋町筋と呼ぶ。

ここ二条の木屋町は森鴎外の『高瀬舟』で有名であるが、主として材木を大阪まで運搬するために、京都伏見までの運搬の通路として秀吉時代、慶長16(1612)年に角倉了以(すみのくらりょうい)が開いた運河である。この高瀬川発祥の地に小生は生まれ育った。断片的に幼少のころの覚えはあるが、今でいう幼稚園時代の経験は無く、始めて小学校の一年生として銅駝小学校に入学する。この辺りからハッキリと記憶が残っている。当時は男子と女子の各一組づつで小生の男子組担任は大坪先生、隣の女子組の担任の先生は津田先生であった。始めての机に座ってそこで渡されたものは一枚の画用紙とクレヨン1セット。「何か絵を描きなさい」から教育が開始する。何の経験もなく始めて渡されたクレヨン。どうするのかも分からないままに、絵を描き始めた。ふと、窓側を見ると谷水君がせっせと絵らしきものを描いていた。多分彼は桜の木を描いていたように記憶する。窓側に太陽の光線が当たって眩しく赤く見えたので早速カンニングが始まった。赤く塗るものだと思ってまねをした。

翌日母親と一緒に職員室に呼びだされ、絵を見せつけられ、開口一番「お前は色盲か!」と怒鳴られた。爾来(じらい)絵は一切描くことをしなかったし、描こうともしなかった。もしその時素晴らしい絵だと褒められていたものならば、ピカソ以上に不思議な絵を描く画家になっていたかも知れない。音楽の授業だけは隣の組の女の先生が交換授業で歌を教えに来られた。恐ろしい怖い先生と言う印象しか残っていない。歌を教わると言うよりも音感教育を徹底して教わったという記憶のほうが印象深い。その当時世界情勢が緊迫していたので、いつ敵の飛行機がやって来るかも知れない、その飛行機の音が敵か味方かを判別するための音感教育。その特訓で始まった。間違えるとタクトの先が頭をかすめる。そのタクトも太い長いむちの様なタクトであった。今にしてみるとこの音感教育が今頃に生かされるとは努々(ゆめゆめ)おもわなかった。小学校四年の時その12月8日朝、全校生徒が校庭に集められ校長松本先生から大東亜戦争が勃発したとの訓示があった。学校は国民学校と改名された。校庭の鉄棒にはつららがぶら下がり、歩く運動場はサクサクと霜柱が砕けて鳴っていた。小学校の東側に加茂川が流れている。夏ともなれば大きな柳の木の上にトンボの大群が飛び廻っている。 「べっこう」(銀ヤンマ)が一番の獲物であるがの中でも「ドロ」と言う翅がチョコレート色に しかも透き通っている奴で雌のトンボが本命である。これがなかなか釣れない。しかも50匹に1匹位の比率で悠々とスイスイ飛び廻っている。このトンボを釣りたいのである。仕掛けは左手から右手にかけて1メートル程度の長さのシケイト(絹糸の撚りのかかっていないトンボ釣り専用の糸)の夫々の先に小豆粒位の大きさの小石を謄写版用の使用済み原紙に丸め込んで、右手の人差し指を起点として丁度格好な獲物の10センチ位前に放り上げるのである。獲物の高さは10メートル位はあろう。時々狙ってもいない「ヤンマ」にクイッとひっかけられもち去られたり、木や電線に仕掛けの糸がまきついてしまう。なかなか難しいゲームである。捕れたトンボを左指右指の間に羽を挟んで、まるで指輪のように両手にたくさんの獲物を持っていることがトン吉の英雄の姿である。今はほとんど見ることが出来ない不思議な光景が思い出としてくっきりと浮かんでいる、トン吉君頑張れ!

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