あーゆす8号4頁

『ロマネスク』を読んで
初等教育専攻2回生  赤 木 仁 美

太宰治の『ロマネスク』という作品は三つの話からなっている。一つ目の話は「仙術太郎」である。これは、太郎という人の人生を描いたものである。題にあるように太郎は23歳の時に仙術の本と出会い、どっぷりと仙術にはまってしまう。太郎は仙術でねずみやわしやへびになることができるようになる。私は太郎がどうして人間以外のものになることを楽しんでいるのかが疑問であった。その答えは話の中には書いていなかった。正解ではないのかもしれないが、私は、太郎が人間でいることが面倒くさいと感じているのではないかと考えた。太郎は生まれた時から変わっていて、普通の人がするようなことも自分からしようとしたことがなかったと書いてあったからである。人間でいることが面倒であるというのはわかる気がする。人間はやらなければならないことがたくさんあるし、複雑な感情もいろいろ持ってしまっている。これが太郎にはたまらなく面倒であったのかもしれない。しかし実際のところ、人間のそういういろいろな部分が嫌であるからといって、私達が仙術で他の動物になれたりするものではない。この話には、どこかに人間の逃げ場がないかという太宰治自身の思いが反映されているのではないかと私は感じた。

二つ目の話は「喧嘩次郎兵衛」である。この話の主人公である次郎兵衛はある日、喧嘩の強い男になりたいと思い修業をはじめる。そして、誰にも負けない喧嘩の強い男になる。しかし、その力を妻に認めてもらうためにしたことは、妻への一方的な暴力となってしまったのである。結果的に次郎兵衛は自分で鍛えあげた手で妻を殺してしまう。この話から私は、自分の力を他人に認めてもらうということはどういうことであるかと考えさせられた。自分の持っている力を認めてもらおうと必死になっている時には気付かないのかもしれないが、そうやって自分の力を押し通しているうちに、知らず知らずのうちに誰か他の人を傷つけているのではないか、誰かを傷つけてまで自分の力を認めてもらう必要があるのか、考えるほどにわけがわからなくなる。次郎兵衛は妻を殺すつもりはなかった。ただ自分の力を認めてほしかっただけなのである。私達の日常生活の中にも、人を傷つけるつもりではなかったのに自分の主張が強すぎて、気付かないうちに傷つけてしまっていることがきっとたくさんあるはずである。それがわかったからといって、人を傷つけることをなくすことはきっとできない。人間はやはり自分の力は認めてもらいたいと思うし、自分の主張は押し通すものだからである。この話は、私にこういったことを伝えてくれるものであったのだと感じた。

最後の三つ目の話は「嘘の三郎」である。題の通り三郎は嘘をつくことが得意であった、というより嘘しかつかなかった。三郎の考え方は「人間万事嘘は誠」というものであった。嘘は嘘であり誠ではあり得ないと考えていた私は、この三郎の考え方が理解できなかった。しかし、嘘というものが誠になり得るとしたらそれはどういう時なのだろうと考えたら、それは誰かが嘘を信じてくれた時、その信じてくれた人と嘘をついた人との間でならば、嘘も誠になるのかもしれないと思えるようになった。人間とは本当にややこしい生き物である。本当のことだけを話せればいいのに、都合の悪いことを嘘で覆ってしまったり、嘘の力をかりて幸せになったり、いろんなことができてしまう。三郎はこんな「嘘」のいい部分だけをうまく利用して生きていたのかもしれない。

この『ロマネスク』の話の中で私は、著者太宰治が人間というものをいかに悟っているかを感じた。それはきっとこの作品を太宰治が自殺の前提に遺書として書いたから、つまり、いざ死ぬというときになって、人間のすべてが見えたからなのかもしれない。太宰が悟った人間がよくわかる作品だったと思う。

『富嶽百景・走れメロス : 他8篇』 太宰治 作 / 岩波文庫

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