あーゆす9号1頁

秋に思う日本の古典
副館長・助教授  伊 藤 和 男

秋、それは物思う季節とも言えよう。秋を歌った平安、鎌倉の歌人達の歌の数々が思いおこされる。「春はただ花のひとへに咲くばかり、もののあはれは秋ぞまされる」と『拾遺和歌集』には歌われ、「もののあはれは秋こそまされ」と『徒然草』にある秋の到来である。季節の移り変わりに伴う様々な自然の美の競演に、繊細な日本人の精神が微妙に反応し、優雅な言葉の宴を生み出したのであろう。しかしそのような精神は今、時代のあまりにも早急な流れの中で過去のものとして忘れ去られようとしているのではないだろうか。ともすれば、利便性、効率性などの名のもとに、時代に迎合し、偏った商業主義に冒され、その結果人間精神の荒廃、文化の退廃があちこちで見うけられるのではないだろうか。

今我々は、長い歴史の中で今日に至るまでその価値を失うことなく存在し続けてきた日本の古典の数々を、この秋に思い、それらを味読することが必要なのではと感じられる。高校時代、「古典」の授業が好きであった私は、授業中に先生に当てられ、すぐれた歌物語として有名な『伊勢物語』第九段「東下り」を朗読した時、クラスの仲間が賞賛の拍手をしてくれたことをよく思い出す。「古典は声に出して読むことが大事なのだ」と言われた先生のことが懐かしく思われるのである。私には、古典の言葉の調子、響き、流れ、その中に感じとれる日本人の心が、読む者に、心の平安、静かなる世界を与えてくれるように思われる。

『徒然草』の第十三段に、「ひとり灯のもとに文をひろげて、見ぬ世の人を友とするぞ、こよなう慰むわざなる。」とあるが、 この「見ぬ世の人を友とする」という言葉が何よりも明確に、古典を愛する姿を物語っている。この世の生ける友は言うまでもなく大切であるが、人生をより深みのあるものにするためには、人間の想像力、人生を哲学する能力を最大限に働かせて、古典を友とすることも大切なのではないかと、常々思っている。

「折節のうつりかはるこそ、ものごとにあはれなれ。」と『徒然草』第十九段は語っているのであるが、物事に情趣を感じ取るこの「あはれ」の精神が今日忘れ去られ、人の心が荒廃しているように思われてならない。礼節を忘れた粗野な言動が、あたかも新しい時代の、新しい人間の姿であるとうそぶくかのごとき現代の日本社会の中で、世の喧噪に流されることなく、心静かに日本の古典を味読し、人生と世界を考え、少しでも深みのある精神の宴を、この秋に享受したいものである。「秋風にあへず散りぬるもみぢ葉の、ゆくへさだめぬ我ぞかなしき」(『古今和歌集』読人知らず) この歌などにも理性と感性の両方に訴えかける力を持った日本の古典の姿がうかがえて興味深い。こんなことが、秋の到来と共に、そこはかとなく思われるのである。

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