あーゆす9号4頁

「とうきちと七右衛門」
生活文化専攻2回生  北 田  維

主人公、とうきち。農民の子に生まれ、去年両親が死んでからは一人で暮らしている。財産らしいものは牛一頭だけ。贅沢することもなく、静かに暮らす。むごいものを見るのは我慢ならない質。

藪内七右衛門。武士であり、数千人の家来を率いる。愛刀は同田貫正国、九尺五寸。情愛が人一倍強く、家来にも慕われている。

この二人の男はまったく異なっている。職業も価値観も、生き方そのものが。生きるために命を育てる者と、生きるために命を奪う者。対極に位置する二人である。どちらの生き方がいいだろうか。とうきちの生き方は理想にも思える。必要以上に相手を傷つけることもなく、周りから見て「安全圏」の人間。とうきちにとっても、周りは周りでありそれ以上でも以下でもない。それゆえに自分が手酷く傷つけられることもない。無難に人間関係をこなしていけるだろう。こういう人間を「善人」と呼ぶのかもしれない。逆に七右衛門はそうはいかない。武士は相手を殺さなくてはいけないし、殺さなければ自分が殺される。自分の家来も当然死ぬ。家来を大事に思っていればいるほど、失ったときの喪失感は大きい。殺した相手に恨みを抱くのも止めようがない。恨みは簡単に、理性や「いい感情」とされるものを吹き飛ばす。その結果、また多くの命が死ぬのかもしれない。では、七右衛門は「悪人」だろうか。直接、間接の違いこそあれ、彼のおかげで人が死んだのだからやっぱり悪人かもしれない。しかし、彼が家来に慕われていたのも事実である。現に彼は情愛が人一倍強いと書いてある。その人間は悪人か。もし違うなら悪いのは何か。七右衛門が情愛だけを持ち、恨みさえ抱かなければ死ななくていい命もあったはずだ。では、「恨み」という感情そのものが悪いのか。そういう見方もあるだろうし、昔から人は恨みなど抱かぬように努力してきた。しかし、これほど難しいことはない。恨みはそれ単独だけで存在しているわけではない。情愛と根っこは繋がっているのである。片方が強くなればもう片方も同じこと。片方が弱くなれば片方も同じこと。七右衛門はどちらも強かった。とうきちはどちらも弱い人間に思える。とうきちが名前で呼びかけられる場面は一度しかない。人が相手の名前を呼ぶとき、必ず相手だけに向けられた呼び手の思いが込められている。それが最後の場面までとうきちにはない。とうきちの生き方は理想だが、少し寂しいかもしれない。かといって七右衛門の生き方が幸せかと聞かれたら難しい。ただ、いつどの時点であれ、どちらかの生き方を選ぶことも、それに近い生き方を選ぶことも可能である。なぜなら、とうきちも七右衛門も本当のところ根っこは繋がっているのだから。

『蟹塚縁起』 梨木香歩 作 ; 木内達朗 絵 / 理論社

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