Teacher's LinkTop 臨床心理学科 准教授 松田真理子
chapter II 人生をプラスの方向に転換する可能性をもつ 自我の力を超えた「ヌミノース体験」
 私が、大学院に在籍していたときから研究課題としているのが「ヌミノース体験」です。「ヌミノース」とは、「宗教体験における非合理的なもの」を指し、もともとはドイツの宗教学者であるルドルフ・オットーが提唱した宗教学の用語です。つまり、宗教体験における倫理や道徳の要素を差し引いた、非合理的で説明しがたく、自我の力を超えているものを「ヌミノース体験」と呼ぶのです。具体的には、神の声を聞いたり、神や観音の姿やまばゆい光を見るなど、その本質を言語化できないような要素を指します。さらに、「宗教」と直接に関係するような体験だけではなく、音楽や絵画、舞台などの芸術に触れ、身体の深いところから揺さぶられるような深遠な体験や、大自然のなかで木々のざわめきや海の波の音を聞くなど、大自然との一体感を通じて感動するなどの体験もヌミノース体験だと考えられます。また、目覚めた時に泣いてしまうほど深い情動を伴った夢の中での体験もヌミノース体験と呼ぶことができるでしょう。ヌミノース体験を経験したときには、時間が止まっていると同時に悠久の時を生きているような感覚や、何か大いなる力に守られているような感覚が生じる場合が多いようです。また、ヌミノース体験は魅惑的であると同時に、戦慄を感じるような二律背反的な側面が特徴的です。
 こうした「ヌミノース体験」は、ただ単に感動的な体験であるというだけでなく、人生の転機となったり、建設的な方向へと目を向けさせてくれる体験にもつながり得ます。大自然の中で深い感動を味わった時に、心が晴れ晴れし、それまでずっと苦しめられていた悩みから開放され、新たな視野が開けるような体験をされた方は少なくないのではないでしょうか。私自身、人生の岐路に立ち、どの道に行くかを迷っていた時に、一枚の絵に出会いました。その絵を見ているうちに言葉では表現し尽せないような深い感動を覚え、そしてその感動の体験を通じて迷いがふっきれ、なにものかに背中を押されるような感じで臨床心理学を研究する道を選択しました。
 現在は、「健常者のヌミノース体験と統合失調症者のヌミノース体験の異同について」をテーマに研究を進めています。統合失調症は2002年まで精神分裂病と呼ばれていた病で、人種差や男女差がなく、だいたい100人に1人の割合で発症します。その症状には二種類があり、幻覚、妄想などの陽性症状と、感情が平坦化し自分の中に閉じこもる陰性症状とがあります。陰性症状は周りの人にはなかなか気づかれないことが多いようです。しかし、本来なら見えるはずのないものが見え、聞こえるはずのないものが日常的に聞こえる幻覚や、妄想といった陽性症状が強く現れる場合は日常生活が困難な場合が多く、この病を病むこと自体の苦しみと同時に、周りの人々から奇妙だと思われ、偏見の目でみられがちな二重の苦しみを負うといった非常に生きづらい状態が続いてしまいます。陽性症状主体の場合は周りから発症していることが分かりやすいのに比べ、陰性症状主体の場合は、静かに病が潜行していき、周りが気づいた時には重症化している場合が多いと考えられます。陽性症状主体にせよ、陰性症状主体にせよ、当人の苦悩は測り知れないと思われます。
 神の声を聞いたり、神の姿を見るなど、統合失調症者の体験する幻聴や幻視は、健常者の体験するヌミノース体験と似ている部分があると考えられます。一方で、健常者のヌミノース体験には、何か大いなるものに包まれているような安心感を伴うことが多く、ヌミノース体験のある統合失調症者の場合もヌミノース体験によって守られていると感じている人が大多数に上ります。これらに比べ、ヌミノース体験が伴わない統合失調症の方の幻聴や幻視は、本人にとっても恐怖の体験であり、「幻聴や幻視が消えてほしい」という感覚を抱く人々が多いという点が前者の経験とは異なっています。また、健常者の場合は宗教に関する内容だけではなく、芸術活動や大自然に触れることによってヌミノース体験を経ることがあり、日本人が古来より培ってきたあらゆる事物の中に神を見る汎神論的感性の反映を見ることが多いのですが、ヌミノース体験のある統合失調症の方の場合は、体験の殆どが神や宗祖にまつわる体験であることが特徴としてあげられます。
 健常者の場合は、体験当初はヌミノース体験に戸惑うことがあっても、体験がその後の人生の転機となったり、またヌミノース体験を自分の中に取り込んで建設的な方向につなげていく場合が多く見られます。私は、統合失調症の方のヌミノース体験も、彼らが人生を生きていきやすい方向へと展開させていく契機として活かすことができないかと考えて研究を進めています。被験者の自発性を尊重すると同時に、あらかじめこちらが質問する内容を決めておき面接を行う「半構造化面接」と呼ばれる面接法で統合失調症の方と繰り返しお会いし、ヌミノース体験や幻覚妄想に関する調査を重ねています。
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