フィールドは常に出会い。出会いを紡ぎ、地域を創る。
今も学び舎から吹く風は、歩みを続ける追い風になる。

01 現在の仕事(くらし)について教えてください。

きっかけは大学院時代のフィールドワーク。
修了後もほぼ毎週末足を運び、イベントなどを手伝ってました。

奈良県高取町にある会社で働いています。高取町の伝統的特産品である「薬草」を取り扱っていて、自分の仕事内容は営業、農業(生産)、加工、商品の販売会の企画と、要するに全部ですね。

一応「統括マネージャー」って肩書きがついてますが、役員でもなんでもありません。農業法人団体の集まりに行く際、他の団体は理事長とか、社長とかのお偉いさんが来てるんですけど、僕だけぺーぺーだったので付けてもらいました(笑)

-高取町に来たきっかけは?

修士論文研究のためのフィールドを探していたときに指導教員の鵜飼先生から紹介されました。それでフィールドワークで約1年間通って、調査の一環で町のイベントのボランティアをしたりしてました。

そんなことを続けていたら「滋賀から来ている学生さん」ということで町の方たちにも覚えてもらうことができました。「ポニーの里ファーム(以下、ポニー)」の社長ともその頃から面識がありました。

-それでそのまま就職することになった?

「保科君、おいでよ」、「あ、じゃあ行きます」

大学院修了後は奈良市にあるベンチャー企業に就職しました。1年くらいはそこに勤めていたんですけど、「高取町でなにかしたい」って思う気持ちがずっとあって、仕事が終わったら高取町へ来たり、週末土日は高取町のイベントを手伝ったりしてました。

そうしたら「ポニー」がちょうど「薬草事業」を始めた頃で、人手を探しているって話を聞いて、「もし良かったら保科君おいでよ」って誘われたので、「あ、じゃあ行きます」って感じで転職しました。

仕事風景1枚目

やっていることは「何でも屋」。
学部で臨床心理学、大学院で文化人類学を学んだ経験が活かされていると、徐々に感じることが多くなっています。

うちの会社はもともと福祉事業からスタートして、アニマルセラピーを目的に乗馬センターを開設して、そこから障害者福祉、知的障害者、発達障害者への生活介護とか、就労訓練(支援)とかをやり始めて、そこの「農業」部門が独立して、別会社になったというのが、所属している「ポニーの里ファーム」。だから福祉事業の仕事も時々しています。

業務の内容上、行政との付き合いも多くて、高取町以外の自治体とも産学官連携で事業を進める話をいただいたりして、そういった点では福祉の話とか、社会学的な話とか、抵抗感無く話に入っていけますね。

仕事風景2枚目

02 なぜこの仕事(ライフスタイル)を目指そうと思ったのですか?

おもしろい仕事だと思うけど、儲かる仕事では決してない(笑)

うちの社長の考え方が、けっこう自由にやらせてくれるので、自分で決めて、自分で動けるので、それはやりやすいですね。うちは農業中心の会社ですけど、別に農業にとらわれすぎなくても良いというか、そういう自由な発想で動けるというのがやりがいの一つですね。

自分の能力的なことをいうと、0から何かを作るというのは苦手で、起爆剤的に何かを生み出すようなアイディアは自分の中には生まれてこないですね。どちらかというと、もともとなにか「資源」があって、そういうものを1のものを10にしたり、100したりということの方が自分にあっているなと。

自分は「研究者」になりたいわけでは無く、自分は一プレイヤーになりたいんだなと思って。
だから研究で携わった高取には一生関わっていきたいんだなって思いました。

人の中に入っていって、人間関係を作ったりするのは嫌いではないし、割と誰と話をしたらいいとか、相談したら良いとかは、なんとなく大学時代のフィールドワークの経験もあってわかってきた気がするので、知り合いだけはやたら増えるというか。それで、ただ知り合うだけでは無くて、知り合った人たち同士を繋げるということが自分には向いている気がしますね。

修論の研究をしている当時、ソーシャルキャピタルとかがはやっていた時代で、いわゆる人とのネットワークが町作りに活かされているのかっていうのが議論されていて。先行研究とかでも、すごく親しくて、仲が良くて、がっちり堅い関係性よりも、むしろ「弱い人間関係」というか、ネットワーク上は関係性があるけども、近くは無いそういう「遠い存在」の方が良い結果を生み出すって言う先行研究があって、まさに自分がしていることはそういうことなんだろうなって思ってます。

昔からあるネットワークに、外からの力を入れて、動かして、活性化させる。一つ成功したら、次をまた入れて、繰り返していく。そういったことを今やっている気がします。

ポートレート

-今後はそういう「繋ぐ」ことをやっていこうと考えていますか?

農業は万国共通。
言葉が通じなくても、同じ作業をすることで共感を得られる。

産学官連携事業の話に少し触れましたが、コロナ禍前にその一環である大学の先生たちとアメリカのシアトルに視察に行きました。今はコロナでストップしてるけど、収束すれば外国人労働者の受け入れは再開するだろうし、そうすると日本社会の中に外国人のコミュニティがどんどん増えます。そうなったとき、日本人とその外国人はどのようにコミュニケーションを取ればよいのか、その先行事例としてシアトルへ視察に行きました。

シアトルは多文化の街なので、彼らがどうやってやりとりをしているのか、そのうまくやってる事例の一つが園芸だったんです。そこにはもちろん空間を繋ぐ人材が要るわけですけど、農業にはそういった力があるなって。

でもそれって日本でも、外国人だけでは無くて、障害者と健常者を繋ぐのにも園芸は役に立つし、それはおとなとこどももそうだし、だから農の持っている力ってそういうこともあるんじゃないかって思います。

ポニーとホッシー

こどもたちには「サバイバル力」を養って欲しい。

僕もこどもが生まれてからこどもを育てる教育とか環境とか、何かしら気にはなってくるので、こども向けのなにかをやりたいなって。

いわゆる学校の勉強だけではなくて「生きる力」みたいな。何か技術があるだけでは無くて、自分とは全然違う環境、いわゆるアウェイに置かれても、そこで人間関係を築けて、仕事も作って生きていける、そういうスキルみたいなのを育てていけるようなことを何かできないかなと考えてるんです。

そういう意味で、文化人類学の異文化理解とか、多文化共生とか、京都文教大学が掲げている「ともいき」の考え方というのはとても大事になってくるんじゃないかなって、最近思うんです。

03 どんな学生時代を過ごされていましたか?

単位大丈夫かなとか、卒業できるんやろうかって、毎日そんなことばかり考えてましたね。

勉強が嫌というか、外で動いている方が好きだったんでしょう。だって、課外活動とかいろんなことをやり出したのって3年生からですからね。

サークルとかはいろいろ所属していましたけど、どれも足つかずみたいな感じで、どれも誘われたから入ったって感じでやりたくて入ったわけでは無かったので。

ちょうど学部の2年生の時に臨床心理学科のフリーペーパーをつくり始めたときに「チャカル」のメンバーである文化人類学科の面々に出会って、森先生に声をかけてもらって、それが3年生になる前の春。だから、スタートがそこからなんで、大学院に関しても、僕の中では3年生が1年生で、そこから4年間大学に通ったって感じなんで、だから最初の2年はもったいなかったなって今は思います。

-2年生までは何をしてたのですか?

バイトと友だちと京都で飲み歩く、てなことですかね。授業は2年生頃からほぼ出てないですね。春学期はがんばろうと思っても、秋学期には全然授業行かなかったりとか。3年生は外ばかり出てましたね。ゼミだけ出てました。

-「宇治茶レンジャー」の創設メンバーでもありますよね?

そうですね。FROに入り浸るようになったら、そこで森先生から「小学校の給食食べに行かへん?」って誘われて、「おもしろそうだし、行きます!」って。

それで行ったのが宇治市内の小学校で、「宇治茶レンジャー」の前身の「いいとこ、しっとこ宇治」かなんかの活動で、そこで文化人類学科のメンバーと知り合って。その後に宇治橋のサテキャンに連れて行かれて、大学の施設でこんなとこあったんやって知りました。

それからは大学に来ても、授業は出席だけとって、FROに籠もるか、宇治の街に出るかでした。

諭し

04 学生時代の「自分」に向けて一言メッセージをどうぞ

「ちゃんと授業に出ろ」、それに尽きます。

今でこそ、過去を振り返って臨床心理学や文化人類学で学んだことを活かせているなと思う部分と、心理学だったら心理学の中でも「障害者心理」とか、ちゃんと授業出とけよって、今となっては思いますね。そういう授業も取ってたはずなんですけど。

結局自分が何かになりたい、何かをやりたいと思ったときに、その時は勉強なんてめんどくさいと思っていたとしても、なりたいもの、やりたいことが見えたときにあの時に勉強しておけばよかったってなっても手遅れになっていることもけっこうあったりして。それを思うとあのときに嫌々でも勉強しておかなければいけなかったんやなって思ったりします。

まあ、学生の時はそんなこと気づかないですけどね(笑)

グッバイ